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学校行けなかった自分へ…中川翔子さんが「オールオッケー!」と言えるまで「しんどい時こそ、夢の種まき」その1 [中川翔子「オールオッケー!」]

学校行けなかった自分へ
中川翔子さんが「オールオッケー!」と
言えるまで「しんどい時こそ、
夢の種まき」その1


中川翔子-1.GIF
「『これ、好き』『これ、おいしい』。
心が少しまろやかになる瞬間を積み重ねて
いったら、それはいつかの未来の
『さなぎタイム』、エネルギーチャージに
なっています」と話す中川さん
=山本和生撮影

「9月が始まると思うと
憂鬱でしたね」。

タレントの中川翔子さんは、
中学時代のこの時期を
そう振り返ります。

今はテレビやラジオ番組で
活躍していますが、
中学時代はいじめられ、
不登校になったことも。


「消えちゃいたいと思いながら、
ひたすら夜をやり過ごして
いました」。


そんな中川さんがいま、
あの時の自分に声をかけると
したら、
「大正解! それを続けてって
伝えたい」と言います。

突然のグループ出現、溶け込めず

大人になると時間って
早く過ぎちゃう。

嫌なことも
「切り替えていくしかない」
って考えられるようになって
きたけど、中学の時は1日ずつ
1時間ずつがすごく長かった。


休み時間、給食の時間、
授業の移動、全部がいやだったので。

「ああ、もう9月が始まる」と
思うと憂鬱でしたね。

心を無にして行くしかないな、
という感じでした。

一人っ子で、もともと
「これが好き」ということを
堂々としていました。

小学校のときは大好きだった絵を
描くことや、漫画の話で友達と
盛り上がっていました。

それが、受験で小学校の友人が
少ない中学に進むと、がらりと
雰囲気が変わりました。



グループとか
「スクールカースト」が
出現しました。

私はついていけなかった。
最初の方でグループに
入るのを失敗して、
そこからずるずる。

一人だけ、クラスで
浮いてしまって。

絵を描いていると、
「なに、絵なんか描いてるんだよ、
キモイんだよ!」って言われたり。

「え? 絵を描くのってキモイの?」

「私、ちょっと変な人って
思われているかもしれない」って
焦って、余計に空回りして。


小学校のときにすごく仲が
よかった子は、クラスが別に
なって一個上の階。

たまに会うと、すごく楽しそうで、
キラキラしていて、違う世界の人
みたいだった。

普通に話しかけてくれるんですけど、
私は一人でいるって勘付かれたく
なくて、その子からも
隠れるようになっちゃった。


休み時間は、教科書を
整理して忙しいふりをしたりとか、
図書室に隠れたりとか、
試行錯誤していました。


でも、それが「ただのふり」だって、
周りにもばれていることは、
自分でも分かっていて。

「なんで私がこんなこと
言われなきゃいけないんだ」とか、

「なんであいつらは
やったもん勝ちなんだ」って、
やられたことを憎んだりしちゃって、
精神的には負のスパイラルでした。


とにかく、私がいるところを
見ないでくれという感じ。


悩み過ぎて、ずっと胃が気持ち悪くて。

吐いちゃっているところを見られて、
それでまた「ゲロマシーン」って
あだ名をつけられて。

本当にしんどかったな。


学校って、本当に気を遣って
いないといけない。

ちょっとでも変なことを
言うと「何あいつ」って、
一瞬で色が変わっちゃう。

「あ、やばい」と思っても、
もう遅い。

そんな細心の注意を払うことが、
私にはできなかったんです。


学校以外の「外の世界」が
あることを知った


中学1年、13歳のとき、
祖母がパソコンを買って
くれたんです。

インターネットもまだ
普及しきっていないころ。

よく買ってくれたと思いますね。

それが、思った以上に
自分を助けてくれていました。


部活入らず、学校が終わり次第、
直ちに家に帰っていました。

でも、無の時間があると
考えちゃうんですよね、
今日何を言われたとか。

だから、ちょっとでも楽で
いられる瞬間を増やそうと思って、
自分でも必死になっていました。


インターネットをつなげて、
いつもの人たちとチャット
したりとか、好きな特撮や
ブルース・リー、
映画、ゲーム、松田聖子さん、
アニメソングとか、
いろいろなものを調べたり。


そうしたら、
「ああ、ここだったら、
こんなに狭い趣味の世界のことも、
語っている人がいる。

もっと詳しい人がいる」と。
パソコンがなかったら、
外の世界に、同じ趣味の人が
いるって分からなかったでしょうね。

夜中だけが救いの時間でした。

インターネットやっているときは
幸せだな。

音楽聴いているときだけは楽しい。

歌っているときはうれしいな、と。

ああー。でも、
もしうまくやっていたら、
部活入って、キラキラして、
楽しくできたんだろうか(苦笑)


いや、逆に今になってみると、
そのときに吸収したことが、
めちゃくちゃ仕事だったり、
人との会話や、出会いに、
役に立ったりしたので、
大正解だったなと言える
時間でもあるし、いや、
悔しかったなあれは、
とも思えるし。


嫌われる星に生まれてきた


中3になると、けっこう
派手なグループのみなさんが、
やんちゃな感じになっていって。

「こいつハブる」ってなったら、
徹底的にハブって。

ハブる人が日々変わったりもする。


「なんでこんなことに
悩んでいるんだろう。

明日も行かなきゃいけない。

嫌だな。

これが毎日ずっと続くのかな。長いな」
って思っていました。

中1の時は違う階にいた、
小学校のとき仲良しだった
子が一緒のクラスになれたんです。

私が聞こえるように
悪口言われていても、
気にしないで一緒に
いてくれた。

それが救いになりました。

「負けてたまるか」と思って、
学校は行っていました。
親や先生には相談しなかった。

でも、中3の最後の方でした。


あるとき、私の靴箱がへ
こんでいて。

誰がやったのか、
明らかに聞こえるように
言ってきたんです。

私、やりかえしちゃったんですよね
。相手の靴箱に。

そうすると今度は、
私の靴箱がもっと
ベコベコになっていて。

数少ない友達にそれを
見られているのも恥ずかしかった。


ついに、靴がなくなって。これじゃ、帰れない。

しかたなく先生に相談したら、
「このローファーを履いて
帰りなさい」って貸してくださった。


「ああよかった。
分かってくれたのかな」と
思っていたら、しばらくして、
先生から「ローファー代払いなさい」
って言われて。


「え、なに? 
やったもん勝ちなの?」って。

もう、大人も信用できない。

どうせ私は嫌われる星に
生まれたんだ、と。

そこから学校に行かなく
なってしまって。

結局、一番やりたくなかった、
泣いたり、学校休んだり、
そういうことになっちゃったのが、
すごく悔しかったから。


「もう行かない」となったら、
卒業式も行かなかった。



「卒業すれば楽になるよ!」言われても


母は心配して、
「学校だけは行きなさい」って。


怒鳴りあいになりました。
私は自分で部屋の鍵をつけて、
閉めて。

でも、母にドアを蹴破られて。

「行けー!」

「行かない!」みたいな。

すごい心配だったと思います。

母一人で育ててくれてたから、

「今引きこもったら、
どうしよう」

「今どうにかしないと」って
思ったでしょう。


でも、「もう無理」って
なっちゃってたときには、
何も耳に入らなかった。

「無理なもんは無理」って、
ふたをしていましたね。


そういうとき、大人に軽く
「卒業すれば楽になるから」って
声をかけられても、

「うるさいな。あなたは
明日行かなくて良いけど、
私は明日も明後日も
行かなきゃいけないんだよ」って、
心の中ですごく
悪態をついていましたね。



どうしたら楽になるのか、
今でも分からない


どうしたら、そのときの自分が
楽になるのか、すごく難しいですよね。

「別にそんな人たち、
気にしなくて良くない?」って
今は思えるようになったけど、
その当時の心は、振り幅が
激しくって制御できない、
ガラスのハート。

どうしようもなかった。


あの後も何度も頭の中で
「もっとうまいことすれば、
無難な場所にいられたのかな」とか、

「あの瞬間、こう言えば
良かったんじゃないか」とか
シュミレーションしてしまう。

けっこう引きずりました。


消えちゃいたい、
死にたいと思っているとき、
なんか子猫が膝に乗りに来たとか、
母が通りかかったとか。

そういうギリギリでなんとか、
「今じゃなくていいか」ってなって。

ひたすら夜をやり過ごしていたと
いう感じでした。


でもあるとき、母が人に
電話しているのが聴こえて。

「しょうこが学校に行かなかったり、
本当に辛そうにしているのを見て、
本当に私もつらくて」
って話していて。


これまで父が亡くなった時も
火葬の日しか仕事を休まないで、
泣いている姿も私には
見せなかった母でした。


「そうか、母も悲しんでいるのか」
って思ったことを、ちょっと覚えている。


それよりもしんどいことも
たくさんあったんですけど。


「好きなこと」しばりの
ブログで前向きに


お仕事が18歳ぐらいのときに
始まりました。

それでも最初はうまくいかないし、
せっかくのチャンスで結果が
出せないこともいっぱいあって、

「恥ずかしい、こんな人生」
って思っていました。



ところが、たまたま代役で、
すごく大好きだった漫画家の
楳図かずおさんとお仕事できる
機会があったんです。

「ああよかった。
辞める前の記念になった」
と思っていた私に、
楳図さんは最後に
「またね」って言ってくださって。


「私ごときゴミムシに
声をかけてくださるなんて!
 『またね』ってことは、
死なないで、辞めないでいたら、
また会える日が来るかも
しれないの?」って
、トンネルの向こうに
初めて光が見えた気がしたんです。


そこから、
「インターネットで写真を
載せられる日記を作らせてください」
ってマネジャーさんにお願いして。

当時はブログをやっている
人もあまりいなかった。


最初は「呪いの言葉を書こうかな」
と思っていたんですけど、
思い出して書くときに、
自分も嫌な気持ちになって、
何回もネガティブを
蒸し返すことになる。


中学時代に
「あの子にこんな悪口言われた」
とか記す「呪いのノート」を
書いていたんですけど、
相手側に見られたことが
あるんです。

証拠が残ることを書くと、
自分に返ってくるから、
辞めた方が良い。


ブログでは
「せめて好きだったことを書こう」
って、明るい遺書的な感じで、
「これが好きでした」、

「アニメソングが好き」って、
今まで言えていなかったことを
書いていきました。


1日20個、30個書いている
うちに、せっかくだから
コスプレしちゃおう、とか、
どうせだったらこうしよう、とか、

ポジティブ気味になってきて。
好きなこと、ほめることだけ
書いていたら、文章に
引っ張られて、
すごい明るくなって。


「漫画読みたい、ゲームしたい、
映画もっと知りたい、
お仕事もしたい」
って。

いままで落ち込むことだけに
向けていた時間を
「それどころじゃないし」
って思えた。


「私もそれ好きです」

「わかるわかる」って
反応がもらえるようになりました。


「あ、学校にいなかった
同じ趣味の人が、
外の世界にこんなにいたのか」
って。


否定されないどころか、
同じ趣味の人に出会えて、
いいところしかないん
じゃないかって思ったときに、
すごく、報われた感じがしました。


なんだ、間違ってなかったんだ
、って。

自分の書いた文字の言霊に
救われたかもしれないですね。



withnews8/26(日) 14:00配信

最終更新:8/26(日) 19:19



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