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キタサンブラック引退!「北島三郎」が語る引き際の美学 [「北島三郎」が語る引き際の美学]

キタサンブラック引退!
「北島三郎」が語る引き際の美学

「北島三郎」が語る引き際の美学.GIF
キタサンブラック、有終の美を飾る

競馬界の一年の総決算、有馬記念。

今年、その晴れの舞台を最後に、
最強馬・キタサンブラックが
惜しまれつつも引退した。

馬主の北島三郎自身も
一足先に紅白歌合戦や
座長公演から身を
引いているが、
なぜ輝きを残しながら、
引退するのか。

北島流“引き際の美学”とは。

* * *


「キタサンブラックは
今なお伸び盛りで、
周囲からは来年もまだいけると
言われます。

私自身も、もう一つぐらい
重賞レースで勝てるかも
しれないと考えています。

しかし、出会ったこの馬が
頑張って成績を残し、
皆さんがこの馬に
親しんでくれている。

そう思ったら、
本当にいい時に、
あいつのためにいい道を
決めてやるべきだと
思ったんですね。

これまでとは違う、
あいつの新しい道を
皆さんも楽しみにしてください
という意味で、今年で引退を
決めたんです」

――北島三郎が所有する
競走馬・キタサンブラックの赤
兎馬(せきとば)の如き活躍は
いまさら言うまでもない。

2015年菊花賞、
16年は春の天皇賞、
ジャパンカップで優勝。
17年は、春秋ともに天皇賞と
有馬記念を制覇し、
デビューから現在までに
約18億7000万円の賞金を獲得した。

そして、今年12月24日の
有馬記念を最後に、
惜しまれつつ勇退する。

「キタサンブラックは
北海道の牧場でたまたま
見かけて買いました。

私の前にもいろんな人が
目にしたけど誰も買って
行かなかった。

不思議なもんです。

牧場で馬を見て帰りの車の中で、
“あの馬、何か引っかかるなあ”と
思った。

それで、“ヨシッ、買おう”と。

正直言うと、こんな立派な
成績を残す馬になるとは
思ってもいませんでした。

今までにも、もっといい馬を
買ったつもりでいて、
走らなかったことは何度もある。

この馬も大したことないだろうと
思いながら購入したら、
どんどんいい方に
変わってくれました。

今では、皆さんに愛される馬に
なった。

だから、この馬は神様からの
贈り物です」

――サブちゃん、オヤジ、
歌謡界の大御所――。
演歌歌手の北島は、
多くの異名を持ち多方面で慕われる。
引退と言えば、彼自身、2013年の
第64回NHK紅白歌合戦で、
50回の出場記録を達成し紅白を勇退。

さらに15年1月には公演回数4578回に
達した座長公演からも身を引く
決断をした。

昨今の政財界では、
なかなか引退せず政治関連組織の
名誉職に留まったり、相談役、
会長といった役職にしがみつき、
経営を傾かせてしまう
悲劇がしばしば起きる。

だが、北島は今でもステージに
立つとはいえ、歌手であれば
誰もが憧れる大舞台からは
潔く身を引いてしまった。

「ズルズル、ダラダラは好きじゃない。
誰かが幕を開けたら、
誰かが閉じなくてはならない。
ケジメはちゃんと付けないと
いかんなあと、ずっと思っていました。
生まれた時からの性格なんです。

皆さんに心配させてしまったり、
無様になったりしたら、
身を引かなくてはならない。

けれど、せっかく、
人様に支えられて花を
咲かせてもらったのだから、
ちゃんとした花を凛と
咲かせているうちにと、
絶えず考えています。

歌手生活を続けて、
気がつけばデビューから55年、
生まれてから81年が経ちました。

3、4年前から、体の調子が悪いと
思い始めて、2回ほど転んだために
怪我をして、頸椎の手術を
昨年9月にしました。

まだ、ちょっと足元が
おぼつかないところもあるんですよ。

今日まで、この道を歩かせてもらって、
歌手になるんだという夢を追いかけて、
夢をやっと掴んだ。

皆さんに支えてもらって、
この道を歩かせてもらったことに
感謝しています。

仏教の教えからくる
『生かされている』と
いう言葉が好きです。

『生きなきゃならない』だと、
だんだん辛くなってきますが、
生かされているんだとなれば、
大事だと思えるし、
その分ちゃんと生きないと
いけないとなる。

子どものためにも孫のためにも、
生意気だけど、世のためにも、
人のためにも、生きることが
大切なんじゃないかなと。

そのためには、
やはり、誰であっても、
ケジメというものが
必要なのではないかと思うんです。

私は紅白に50回出場
させてもらいました。

その間、時代の流れとともに、
紅白も演歌の世界も、
様変わりしました。

それならば、
ここで一度線を引いてみよう。

私が幕を閉じれば、
代わりに紅白に憧れている
誰かが出場することも出来る。

その人が私の代わりに
生かされてくれればよい、
そう考えたのです」


“のど自慢大会荒らし”

「北島三郎」が語る引き際の美学1.GIF
紅白の大トリ11回は美空ひばりと並び歴代最多

――1936年(昭和11年)10月4日、
本名・大野穣は、北海道
上磯郡知内(しりうち)村
(現・知内町)の漁業と農業を
営む家に、7人きょうだいの
長男として生まれた。

周囲では歌の上手い少年として
知られていたこともあり、
高校2年の時、
「のど自慢素人演芸会」
(現「NHKのど自慢」)に出場した。

当時、番組の司会を務めていたのは、
後に参議院議員になった
宮田輝アナウンサーだった。

「その時の鐘の数は、2つ。
私のなかでは、
鐘は3つ鳴るんじゃないかって
期待していたんですが、
アガってしまいました。

宮田さんが
『いい声をしていたけど、
惜しかったですねえ』
なんて優しく声を
かけてくれましてね。

それをまともに受けとめちゃって、
この人がこれだけ言ってくれるん
だから、歌手になれるんじゃ
ないかって思っちゃったんです。

のど自慢は友人が申し込んで
くれたもので、僕が東京へ
行くとなった時、
同級生たちの間では、
“大野は歌手を目指して
上京するんだ”という
認識になっていました。

自分は長男なので、
本来ならば跡を
継がなくてはなりませんでした。

でも、親、きょうだいを
捨てるような思いで、
函館から津軽海峡を渡って、
夢を追いかけてきました。

夢を掴むまでは、
二度と帰れない、
といった思いで故郷を
出てきたのです。

親父やお袋、
きょうだいには
申し訳ないと思いましたが……」

――1954年春、故郷を出た北島。
函館港への見送りは父1人だった。

絶対に歌手になってみせる、
と心に誓い、両親には歌の学校に
通うということで上京を
許してもらった。

最初の1年は新小岩に住み、
土日は隣町の平井にある
鉄工所でアルバイトしながら、
東京声専音楽学校に通った。

「学校はクラシック音楽を
学ぶ所でしたから、
なんとか流行歌の歌手になる
チャンスをと思っていた頃、
新聞で『歌手募集』の広告を
見つけたんです。

演歌師、流しの募集でした。
大久保に稽古場があり、
新小岩から大久保まで通うのは
大変なので、近所のアパートを
紹介されて三畳間で暮らすことに
しました。

そのアパートの大家の娘が後に
女房になるわけです。

アルバイトをしながら、
テレビの“のど自慢大会荒らし”も
しましたね。

優勝すると1000円もらえたんです。
今なら1万~2万円といった
ところでしょうか。

そうやって、なんとか
生活していました。

歌手になるために
上京したというのに、
同級生に流しの姿は
見せられないと
思っていたんですが、
ある日、渋谷の街中で
『大野、大野』って本名を
呼ばれたんです。

渋谷で僕の本名を知っている人
なんているはずがない。

しらばっくれたんですが、
後を追いかけてくる。

しょうがなく振り返ると、
その声の主は、案の定、
同級生でした。

『なんだ、歌手になるって
言って、流しをやってたのかよ』
って言われて、その言葉が
耳にこびり付いてしまいましたね」

――もっとも、流しの歌手を
するうち、大野青年の歌唱力は
噂になり始め、日本コロムビアの
関係者から作曲家・船村徹に
引き合わされた。

そして、門下生を経て、
62年に「ブンガチャ節」
(作詞・星野哲郎/作曲・船村徹)で
念願のデビューを果たした。

翌63年には「ギター仁義」
(作詞・嵯峨哲平/作曲・遠藤実)で
夢にまで見たNHK紅白歌合戦(第14回)
に初出場。

この年は東京オリンピックを
翌年に控え、日本中が熱気に
包まれていた。

舟木一夫「高校三年生」、
梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」と
いったヒット曲が相次ぎ、
紅白史上でも視聴率第1位、
81・4%という驚異的な数字を
叩き出した。

歴史的なその大晦日は、
津軽海峡を渡ってきた
27歳の青年の夢が実現した日と
なった。

「初出場した時のことは、
はっきり憶えていますよ。

全然、アガらなかった。
本当に不思議なくらい全然。

私は颯爽と舞台に出ていって、
“選ばれた歌手なんだから、
一発ぶちかましてやろう”と
いうぐらいの勢いでした」

チャンスはそんなにない

――「ギター仁義」の歌詞の
中には「おひけえなすって」と
仁義を切る箇所がある。

コンプライアンスが厳しくなった
現在のNHKならきわどい表現と
受け止められるだろう。

当時ですら「おひけえなすって」の
際にはポーズは控えてくれ、と
演出側から指示があったという。

「だけど本番になったら、
忘れてついやっちゃったんです。
もう最高の気分で歌いましたからね。
緊張している暇はなかったです。

人間誰でも、生きていれば、
何かの出会い、きっかけが
あるんだと思います。

そのチャンス、運を絶対に
逃しちゃいけない。

“運がいいな”と思ったときには
進め、と僕は決めているんです。

麻雀やっていてある程度勝つと、
負けたくないからやめちゃう
なんてことがありますよね。

でも、それは運を止めちゃって
いると思います。

チャンスはそんなにない。

そして、運と不運は裏表であって、
もしも今が辛いのならば耐えろ。

その先にはよい運が待っている。

何もしなければ、
何も返ってくるものはないぞ。
そう考えています」

(下)へつづく

 * * *

「週刊新潮」2017年12月28日号 掲載

新潮社


デイリー新潮 12/26(火) 8:01配信

最終更新:12/26(火) 17:43

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171226-00535442-shincho-ent&p=1
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171226-00535442-shincho-ent&p=2
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