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美輪明宏「銀巴里」から全てが生まれた 【大人の魅力】多くの文化人を魅了… [美輪明宏「銀巴里」から全てが生まれた]

美輪明宏「銀巴里」から全てが生まれた
【大人の魅力】多くの文化人を魅了…

美輪明宏.GIF
当時19歳、シャンソンを歌う美輪明宏。
多くの人を魅了してきた

美輪明宏(82)が毎年開催する
「音楽会」が9月8日、
池袋の東京芸術劇場プレイハウスで
初日の幕を開ける。

テーマは、ずばり
「美輪明宏の世界~シャンソンと
おしゃべり」。

かつて多くの文化人、
学生たちが集ったシャンソン喫茶
「銀巴里」の雰囲気を再現する
という。

今回は、ひと足早く「銀巴里」
ようこそ!

物語はいつもここから始まった。

銀座7丁目、
その名はシャンソン喫茶「銀巴里」。

薄暗い階段を恐る恐る歩を進める。

壁にはモンマルトルの丘から
見下ろすパリの街並み。

さあ、異空間へようこそ。

ビロードのような優しい闇に
包まれたステージ。

金色のスポットライトに浮かび
上がるシルエットは、
妖艶な美の化身か。

 「あの子は一体だれなの?」

 「男なのか、女なのか」

 「それにしても歌唱力は半端ないな」

寿司詰めの客席から湧き上がる歓声、
尋常ではない美しさに漏れるため息。

観客の視線を一瞬でクギ付けに
したのは、弱冠17歳の美輪明宏だ。

敗戦からわずか数年。

時代が文化に飢えていた。

キャバレー、ダンスホール、
そして、生バンド。

「暗い日曜日」などで知られる
ダミアが来日すると、
芸術の都の香り漂う
シャンソンブーム到来。

そんな中、彗星(すいせい)のごとく
現れたのが、エディット・ピアフ
「バラ色の人生」、
イヴ・モンタン「枯葉」などを
流ちょうなフランス語で
歌う美少年だ。

オペラ歌手を目指し音楽学校で
練習を積んだ、その歌唱力は
折り紙付き。

類いまれな美貌と歌声は、
瞬く間に巷(ちまた)に知れ渡った。

「面白い時代でしたね。
いつもいろいろな方が
いらっしゃってましたから。

まるでサロンという感じでした。

大正ロマン、昭和モダンの空気に
満ちあふれてましたね。

ああいう場所は今はどこにも
ないですね」

「銀巴里」は、時流に敏感な多くの
文化人、学生たちで連日にぎわった。

美輪の底知れぬ魅力にいち早く
心酔したのは、「仮面の告白」
「金閣寺」の三島由紀夫だ。

その後の2人の深い精神的な
結びつきはあまりにも有名。

後年、その三島が美輪のために
戯曲化した「黒蜥蜴(とかげ)」の
原作者、推理作家の江戸川乱歩も
やってきた。

ノーベル賞作家となった大江健三郎、
若き日の五木寛之らも足しげく
店に通って来た。

「君の前世は、あの天草四郎なんだって?
じゃあ、僕の前世は何だか分かるの?」

「そうですね。あなたは豆ダヌキですよ」

「なんで君が天草四郎で、
俺が豆ダヌキなんだ。
ちゃんと真面目に見ろよ」

「たぶん、そうね、あなたはきっと
“転び伴天連(ばてれん)”でしょうね」

こんなウイットに富んだやりとりを
美輪と交わしたのは、フランス留学から
帰国したばかり、「白い人」で
芥川賞を獲った遠藤周作である。

「私が“転び伴天連”と言ったら、
その瞬間、彼の顔色がサーッと
変わるのが分かりましたよ。
きっと何か心に思うことが
あったのかもしれませんね」

ポルトガル司祭と隠れ
キリシタンを題材にした、
遠藤文学の代表作の一つ
「沈黙」が出版されたのは、
その10年後のことである。

世はまさに神武景気。

当時の美輪に付けられた
キャッチフレーズは、
「神武以来(じんむこのかた)の美少年」。

このキャッチを最初に口にしたのは、
パリの社交界でも活躍した
「バロン薩摩」こと薩摩治郎八だった。

巨万の富で画家の藤田嗣治ら、
多くの芸術家を支援した桁外れの
大金持ち。晩年、帰国し「銀巴里」で
美輪のステージに魅せられてしまった。

その薩摩は常々
「今、僕にあの頃の金があれば、
君は一体どんな芸術家に
なっただろう」と悔しがっていた。

「銀座にムラサキのお化けが出るぞ!」
と騒動を巻き起こしたのは、
20歳になった美輪の仕業だった。

ライバル店の出現に順風だった
「銀巴里」に突然、暗雲が立ちこめた。

客足が遠のいた店のPRのために
前代未聞のアイデアをひねり出した。

それが派手な紫のシャツにパンツルック。

髪の毛は米国から入って来たばかりの
スプレーで染めた。

マニキュアは日劇の大道具さんに
お願いして作ってもらいました。

全身ムラサキずくめで数寄屋橋から
歌を歌いながら店まで行進するんです。

すると、みなさんが珍しがって
どんどん後をついてくるんです。
まるで“ハーメルンの笛吹き男”ですよ」

今思えば、この時が元祖ビジュアル系の
始まり。

こんな奇策を思いついたのは、
美輪が若衆たちが着飾った
室町時代の華やかな小姓文化に
精通していたこと、
もうひとつ、米軍の将校たちが
持参する海外の雑誌がヒントになった。

「あの頃、実存主義を提唱する
サルトルやボーボワール、
ジャン・コクトーらのいかにも
自由な写真がよく出ていました。

それとダダイズムに傾倒したような
人たち。

物凄く奇抜なファッションで
驚きましたね。

見た瞬間にこれだっとピンときました」

「バカヤロー」「ケチンボ」など、
それまで日本にはなかった訳詞を付けて
大ヒットしたのは、美輪をスターダムに
押し上げた「メケメケ」。

学生服姿で客席から憧れのまなざしを
送っていた寺山修司は、時を経て、
晴れて美輪主演の舞台「毛皮のマリー」
などを実現、伝説を作り出した。

まさに全てがこの店から生まれたのである。
 (敬称略)

美輪明宏1.GIF
「銀巴里」再現となる音楽会への思いを語る
美輪明宏(撮影・御堂 義乗)

スポニチアネックス8/27(日) 10:05配信

最終更新:8/27(日) 11:25

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170827-00000092-spnannex-ent



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